8月 31, 2023
悩めるワイン業界人(と未来のワイン業界人)におくる「THEワインキャリア」の今回は、株式会社山仁の代表取締役社長にして、マスター・オブ・ワインの大橋健一さんにお話をうかがいました。
「きっかけは必然でした。」
ワイン業界に入った経緯を尋ねると大橋さんはそう答えてくださいました。
それもそのはず、全国酒類連合会副会長を父に持ち、2029年には100周年を迎える株式会社山仁(栃木、宇都宮)の三代目として生まれた大橋さんにとって、ワインやお酒との出会いは当然のものでした。
1929年に大橋さんの祖父によって創業された株式会社山仁は、国民的アニメ「サザエさん」に登場する三河屋さんよろしく地域の家飲み需要を支えた初代、お酒への豊富な知識と当時では珍しかったロジスティクスの構築によって対飲食店の可能性を切り拓いた二代目とバトンが託されてきていました。
父も大橋さんを三代目にするべく幼いことから、お酒の話を聞かせ、酒屋の仕事を語り、ワインを嗅がせ、と酒屋としての英才教育を施します。
しかし当の大橋さんは、親の心子知らずではないですが、「白ワインは酸っぱいし、赤ワインは渋いし」ということで若いころはワインがあまり好きになれなかったそうです。
大学生になっても、個人的に飲むのはビールやチューハイばかりだったそうですが、父の「ワインの時代が来る」という言葉を信じ、日本語で書かれたワインの文献が少ない当時、ワインの勉強をするためにフランス語を学びます。
大学をまもなく卒業という頃、当時山仁を出入りしていた酒屋の息子がワインの勉強を始めたのを機に、大橋さんも負けてられないと重い腰を上げます。
卒業後は、バブル期の日本を肌で感じるために、六本木の酒屋に就職し、ドライバーとして、当時一世を風靡したディスコ「マハラジャ」などバブル期を象徴する店舗へ商品を届ける日々を過ごします。
時代が時代だけに開くワインも五大シャトーやプレステージシャンパーニュなどが消費される現場に立ち会ったのでした。
そんな六本木での勤務も二年を経て、大橋さんは山仁に戻ってきます。
山仁に戻れば、すぐに管理職なんて甘い話もなく、ふたたびセールスドライバーとして下積みを経験します。
しかし今回はただ商品を運ぶだけではなく、お客さんからの質問や依頼に応えたり、価格交渉をしたり、商品を提案したりと営業活動にもいそしむ日々。
一方で営業専属になる前に、ワインアドバイザー選手権で優勝することを目標にしていた大橋さんは、朝から夜まで働き、9時に会社に戻るとそこからワインの勉強を夜更けまで続けていたそうです。
ここまでがむしゃらになるのも、当時栃木のワイン市場では別の酒屋さんが強く、早くからワインという商材に目をつけていた山仁は時代を先取りしすぎた結果、ようやく時代が追いついてきたときにはタイミングを逸してしまっていたのです。
「あれだけ子どものころからワインの時代が来ると言われ育てられ、実際にワインの時代が到来するとお膝元の栃木でも他の酒屋にお株を奪われている、これはいかんと思いましたね。」
そうして、大橋さんは山仁に戻ってきて8年後32歳にしてワインアドバイザー選手権で見事優勝を果たします。
全国業務用酒類卸連合会副会長として広いコネクションと人望を持つ二代目父とワインアドバイザー選手権で優勝を果たした三代目大橋さん。
祖父と父が築いてきた山仁というプラットフォームに、新しいワインのプロフェッショナルとしての三代目大橋さんのピースが埋まることで山仁の勢いはさらに増していきます。
ワインアドバイザー選手権優勝者としての講演依頼やこれからワインに力を入れていこうという全国の酒屋さんからのセミナー依頼が大橋さんと山仁のもとに続々と舞い込んできます。
さらに、全国の飲食店から大橋さんへワインセレクトの依頼も増えていき、山仁は全国規模の販路を構築するに至ります。
会社もさらなる拡大路線に入り、ワインのプロフェッショナルとしての大橋さんの立場をできつつあったこの時、大橋さんにもうひとつの転機が訪れます。
その転機が、のちに世界最大規模のワインコンペティション(IWC)に日本酒部門創設する、当時日本航空のCAとして働く平出淑恵さんとの出会いでした。
ある雑誌の取材でたまたま一緒になった平出さんは、
「日本のワインアドバイザー選手権で優勝したくらいでいい気になっていたらダメよ。」
そう大橋さんに説教をしてくるのでした。
果たして、このお説教が大橋さんの今後にどうつながっていくのか…、それは後編のお楽しみ。
© 2024 @ THE WINE EXPERIENCE Co., Ltd.